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      <title>もっと知りたい彦根城</title>
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      <language>ja</language>
      <copyright>Copyright 2007</copyright>
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         <title>第8回 楽々園</title>
         <description><![CDATA[<img src="/castle/learn/learn/img/08_rakurakuen_01.jpg" alt="" class="right" />
<p>
楽々園は、玄宮園とともに彦根藩4代藩主井伊直興により建立された彦根藩の下屋敷で、槻御殿と呼ばれていました。現在は、建物部分を楽々園、庭園部分を玄宮園と呼び分けています。 <br />
槻御殿の建っている場所は、松原内湖に面した広大な干拓地でした。江戸時代初期には、重臣の川手主水（かわでもんど）の屋敷があったとも伝えられていますが、下屋敷の普請にあたり、大規模な拡張工事を行ったと考えられ、その敷地面積は藩庁であった表御殿（現在の彦根城博物館）をはるかに凌駕しています。 
</p>
<img src="/castle/learn/learn/img/08_rakurakuen_02.jpg" alt="" class="left" />
<p>
井伊直興亡き後、倹約令などにより楽々園の建物は縮小気味に推移することが多かったと考えられますが、文化10年(1813)の11代藩主井伊直中の隠居に際して大規模な増改築が行なわれ、その後間もなく楽々園は最大規模に膨らみました。その大きさは現在の建物のおよそ10倍もありました。現存する「御書院」も、その際に新築されたもので、御書院に面して新たに「庭園」が築かれました。現在、枯山水となっている庭園がそれですが、古絵図を見ると満々と水をたたえています。<br />
御書院の奥はしだいに渓谷の風情をなし、「地震の間」「楽々の間」などへと連なります。地震の間は耐震構造の建物であるため今日そのように呼ばれていますが、当時は茶の湯に用いる「茶座敷」でした。楽々の間も同様に数寄屋建築であり、12代藩主井伊直亮により、地震の間のさらに奥に増築されました。「楽々園」の名の由来ともなった建物であり、 煎茶の茶室として近年注目されています。 
</p>]]></description>
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         <pubDate>Wed, 26 Sep 2007 18:00:47 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>第7回 玄宮園</title>
         <description><![CDATA[<img src="/castle/learn/learn/img/07_genkyuen_01.jpg" alt="" class="right" />
<p>
玄宮園は、隣接する楽々園とともに、江戸時代には「槻（けやき ）御殿」と呼ばれた彦根藩の下屋敷です。槻御殿は、延宝5年（1677年）、4代藩主井伊直興により造営が始まり、同7年に完成したと伝えられ、昭和26年には国の名勝に指定されています。現在は、槻御殿の庭園部分を玄宮園、建物部分を楽々園と称しています。 
</p>
<p>
玄宮園の名は、中国の宮廷に付属した庭園を「玄宮」と言ったことから命名されたと考えられます。 <br />
園内を見渡す好所に建てられた数寄屋建築である「八景亭」の名から、一説に中国の瀟湘（しょうしょう）八景または近江八景を取り入れて作庭されたとも伝えますが、 江戸時代に描かれた「玄宮園図」に八景亭の名はなく「臨池閣（りんちかく）」と呼んでいたようです。そのほか玄宮園図には「鳳翔台（ほうしょうだい）」「魚躍沼（ぎょやくしょう）」「龍臥橋（りゅうがばし）」「鶴鳴渚（かくめいなぎさ）」 「春風埒 （しゅんぷうれつ）」「鑑月峯（かんげつほう）」「薩埵林（さったりん）」「飛梁渓（ひりょうけい）」「涵虚亭（かんきょてい）」の十景が付箋によって示されており、当時「玄宮園十勝」と呼ばれていたことが確認されています。 
</p>
<p>
玄宮園は、広大な池水を中心に、池中の島や入江に架かる9つの橋などにより、変化に富んだ回遊式庭園となっています。池の水は、湧水の豊富な外堀からサイフォンの原理により導水して供給し、小島の岩間から水を落として滝に仕立てていました。池には船小屋があり、園内で風流に舟遊びの一興を催すこともありました。また、松原内湖に面した庭園の北側には水門が開き、大洞（おおほら）の弁財天堂や菩提寺の清凉寺・龍潭寺への参詣、あるいは松原のもう1つの下屋敷である御浜（おはま）御殿への御成りには、そこから御座船（ござぶね）で出向いたようです。 
</p>]]></description>
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         <pubDate>Wed, 26 Sep 2007 17:28:03 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>第6回 馬屋</title>
         <description><![CDATA[<img class="left" alt="06_umaya_01.jpg" src="http://hikone-400th.jp/castle/learn/learn/img/06_umaya_01.jpg" width="220" />
<p>
表門の外、内堀と道路を隔てて建っている細長い建物が馬屋です。この馬屋は、全国の近世城郭に残る大規模な馬屋としてほかに例がなく、国の重要文化財に指定されています。<br />
馬屋の建物はL字形をしており、佐和口の櫓門に接する東端に畳敷の小部屋、反対の西端近くに門があるほかは、すべて馬立場（うまたちば）と馬繋場（うまつなぎば）となっています。</p>
<p>その数は21。つまり21頭もの馬を収容することができたのです。馬屋は、さらに現在の売店方向に伸びていたようですが、現在は復元されていません。</p>
<img class="right" alt="06_umaya_02.jpg" src="http://hikone-400th.jp/castle/learn/learn/img/06_umaya_02.jpg" width="220" />
<p>馬屋は藩主などの馬を常備したものでした。こうした馬屋の他にも、かつて表御殿(現在の彦根城博物館)の玄関脇には客用の馬屋がありました。また、槻御殿(現在の玄宮楽々園)やお浜御殿などの下屋敷には、馬場（ばば）があって馬の調教が行われていました。</p>
<p>武門をもって知られた彦根藩では、戦のない時代を迎えても、著名な兵法家や武術家を多数召し抱えて、藩内で武術が学び継がれました。馬術も例外ではなく、2代藩主直孝に召し抱えられた神尾織部（かみおおりべ）の「新当流」をはじめ「大坪流」「大坪本流」「八条流」などの流儀が普及しました。8代藩主直定はとくに馬術を好んだ藩主として知られますが、藩士も250石以上は馬扶持（うまふもち）を支給されて馬を所持し、馬術の修練を怠りませんでした。</p>
<img class="left" alt="06_umaya_03.jpg" src="http://hikone-400th.jp/castle/learn/learn/img/06_umaya_03.jpg" width="220" />
<p>こうした馬に関する役職として馬役（うまやく）がありました。彼らは藩主の馬の日常的な管理・調教を行うとともに、藩主やその子弟、そして藩士に馬術を指南しました。馬屋の馬たちも彼ら馬役によって維持され、藩主などに供されていたのです。</p>]]></description>
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         <pubDate>Thu, 25 May 2006 03:47:02 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>第5回 太鼓門櫓</title>
         <description><![CDATA[<img alt="05_taikomon_01.jpg" src="http://hikone-400th.jp/castle/learn/learn/img/05_taikomon_01.jpg" width="220" height="147" class="right" />
<p>
本丸にそびえる天守を目の前にした最後の門が重要文化財の太鼓門櫓です。門櫓の南には、「く」の字に曲がった続櫓が付設されています。この門櫓は、建物の背面の東壁面が開放され、柱間に高欄（手すり）を設置して1間通りを廊下にしています。 <br />
櫓にはたいへん稀な例で、一説には名称となっている「太鼓」が櫓の中に置かれ、その太鼓の音が広く響くための工夫とも考えられていますが、明確ではありません。 
</p>
<br />
<img alt="05_taikomon_02.jpg" src="http://hikone-400th.jp/castle/learn/learn/img/05_taikomon_02.jpg" width="220" height="147" class="left" />
<p>
太鼓門櫓も、天秤櫓・西の丸三重櫓、そして天守などと同様に、築城時にほかの場所から移築された建物です。長い間、太鼓門櫓は、彦根城築城以前に彦根山の山上にあった、彦根寺の山門を移築したものと考えられてきました。彦根寺は観音信仰の寺として広く知られていました。彦根山に向かって西に伸びた「巡礼街道」は、かつて、彦根寺へ多くの都人が参詣したため付けられた名称ですが、こうした観音霊場では納札を寺の建物などに打ち付ける習わしが古くからあります。太鼓門櫓には門の柱に古い釘穴がたくさん残っており、これらの釘穴を納札を打ちつけた痕跡と考えて、彦根寺山門の移築説が生まれ、広く流布していたようです。 
</p>
<img alt="05_taikomon_03.jpg" src="http://hikone-400th.jp/castle/learn/learn/img/05_taikomon_03.jpg" width="220" height="147" class="right" />
<p>
ところがこの説は、昭和31年から32年にかけて行われた太鼓門櫓の解体修理工事によって否定されました。解体修理に伴って実施された建物部材調査により、移築前の建物も、どこかの城の城門であったことが判明したのです。しかも、かつての城門は規模が大きく、それを縮小して今日の太鼓門櫓としていました。ただ、それがどちらの城の城門だったのかは、今も謎のままです。
</p>]]></description>
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         <pubDate>Thu, 25 May 2006 02:22:31 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>第4回 佐和口多聞櫓</title>
         <description><![CDATA[<img class="right" alt="04_sawaguchi_01.jpg" src="http://hikone-400th.jp/castle/learn/learn/img/04_sawaguchi_01.jpg" width="220" height="148" />
<p>
「いろは松」に沿った登城道の正面に佐和口があり、その桝（ます）形がたを囲むように築かれているのが佐和口多聞櫓です。佐和口は南の京橋口、西の船町口、北の長橋口とともに中濠に開く4つの門の1つ。表門に通じる入口として、大手の京橋口とともに彦根城の重要な城門の1つでした。<br />
重要文化財となっている佐和口多聞櫓は、佐和口に向かって左翼に伸びており、その端に二階二重の櫓が建ち、多聞櫓に連接しています。多聞櫓は長屋のような形が特徴的な櫓の一種で、「多聞」の名は戦国武将松永久秀（まつながひさひで）の多聞城（奈良市）で初めて築かれたことに由来すると伝えています。佐和口の多聞櫓は、佐和口の桝形を囲むように二度曲折する長屋となっています。この櫓の内部は7つに区画され、中堀に向って三角形「△」と四角形「□」の狭間（ざま）が交互に配置されています。<br>
現存する多聞櫓の右端は切妻屋根で不自然に途切れ、石垣のみの空地が広がります。
</p>
<img class="left" alt="04_sawaguchi_02.jpg" src="http://hikone-400th.jp/castle/learn/learn/img/04_sawaguchi_02.jpg" width="220" height="148" />
<p>
かつてこの地には二階二重の櫓門が桝形を見下ろすように架かっていましたが、明治初年に解体されてしまいました。
空地はその名残りです。ちなみに桝形より右翼に伸びる長大な多聞櫓も同時に解体され、現在の櫓は昭和35年に開国百年を記念して復元されたコンクリート造りの建物です。<br>
佐和口多聞櫓の建立について詳しいことはわかっていませんが、彦根城がおおよその完成をみた元和（げんな）8年（1622）までには建てられていたと考えられています。<br />
その後、明和（めいわ）4年（1767）に城内で発生した火災で類焼し、現在の建物は明和６年から８年にかけて再建されたものです。
</p>]]></description>
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         <pubDate>Thu, 25 May 2006 02:20:54 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>第3回 西の丸三重櫓</title>
         <description><![CDATA[<img  class="right" alt="03_nishinomaru_01.jpg" src="http://hikone-400th.jp/castle/learn/learn/img/03_nishinomaru_01.jpg" width="220" height="147" />
<p>
彦根城内には、天守のほかにも2棟の3階建物がありました。1棟が現存する西の丸三重櫓で、もう1棟が明治初年に取り壊された山崎曲輪（くるわ）の三重櫓でした。今回は、国の重要文化財に指定されている西の丸三重櫓をご紹介しましょ
う。<br>
西の丸三重櫓は、本丸に隣接する西の丸の西北隅に位置しており、さらに西に張り出した出曲輪（でぐわ）との間に設けられた深い堀切（ほりぎり）（尾根を切断して造られた空堀）に面して築かれています。堀切の底から見上げる三重櫓は絶壁のようにそそり立っており、西の搦手（からめて）（裏手）方面からの敵に備えた守りの要かなめでした。
</p>
<p>
この三重櫓は、東側と北側にそれぞれ1階の続櫓（つづきやぐら）を「く」の字に付設しています。三重櫓には天守のように装飾的な破風（はふう）などはありませんが、櫓全体を総漆喰塗ぬりとし簡素な中にも気品のある櫓となっています。この建物は浅井長政居城であった小谷城の天守を移築したとの伝えもありますが、昭和30年代に行われた解体修理では、そうした痕跡は確認されませんでした。<br>
なお、彦根藩主井伊家の歴史を綴（つづ）った『井伊年譜』を見ると、築城当初、西の丸三重櫓は家老の木俣土佐（きまたとさ）に預けられていました。当時、山崎曲輪に屋敷を与えられていた木俣土佐は、毎月20日ほどこの櫓に出務するのを常としたようです。
</p>]]></description>
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         <pubDate>Thu, 25 May 2006 02:19:31 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>第2回 天秤櫓</title>
         <description><![CDATA[<img class="right" alt="02_tenbin_01.jpg" src="http://hikone-400th.jp/castle/learn/learn/img/02_tenbin_01.jpg" width="220" height="147" />
<p>
天秤櫓は、大手門と表門からの道が合流する要（かなめ）の位置に築かれた櫓です。<br>
この櫓は、上から見ると「コ」の字形をしており、両隅に2階建ての櫓を設けて中央に門が開く構造となっています。あたかも両端に荷物を下げた天秤のようであり、江戸時代から天秤櫓の名があります。<br>
けれども詳細に見ると両隅の2階櫓は棟の方向が異なっており、格子窓の数も左右で違うなど決して左右対称ではありません。このような構造の櫓は他に例がありませんが、均整のとれた美しさに加え、城内の要の城門としての堅固さを感じさせます。
</p>
<img class="left" alt="02_tenbin_02.jpg" src="http://hikone-400th.jp/castle/learn/learn/img/02_tenbin_02.jpg" width="220" height="148" />
<p>
大手門と表門からの道が合流する天秤櫓の下は、鐘の丸から天守へと伸びていた尾根を、築城時の縄張りによって大きく断ち切った箇所で「堀切（ほりぎり）」と言います。堀切には橋が架かっていますが、この橋がなければ天秤櫓の高い石垣を登らないと本丸へ侵入できません。戦となれば、この櫓が果たす役割は重要でした。<br>
天秤櫓が築かれるのは、築城の開始から数年後と考えられています。彦根藩主井伊家の歴史書である『井伊年譜』には、この櫓が長浜城の大手門を移築したものであると記しています。昭和30年代の解体修理では、移築された建物であることや、往時の長浜城主内藤家と伝える紋瓦なども確認されていますが、天秤櫓の前身が『井伊年譜』の記載どおり長浜城大手門と断定するには至っておりません。<br>
天秤櫓はおよそ400年の長い年月の間に、幾度か修理を重ねてきました。中でも嘉永（かえい）7年（1854）の修理は大規模で、建物のみならず石垣まで積み替えています。<br>
</p>
<img class="right" alt="02_tenbin_03.jpg" src="http://hikone-400th.jp/castle/learn/learn/img/02_tenbin_03.jpg" width="220" height="148" />
<p>
堀切から天秤櫓を見上げてみてください。右手の高石垣が、越前（現在の福井県北部）の石工（いしく）たちが築いたと伝える築城当初の「牛蒡積（ごぼう）み」。そして、左手が幕末の嘉永年間に積み替えた切石の「落し積み」です。
</p>
]]></description>
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         <pubDate>Thu, 25 May 2006 02:18:05 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>第1回 天守</title>
         <description><![CDATA[<img class="right" alt="01_tenshu_01.jpg" src="http://hikone-400th.jp/castle/learn/learn/img/01_tenshu_01.jpg" width="220" />
<p>
彦根城と城下町の建設は、今からおよそ400年前の慶長（けいちょう）9年(1604)に始まり、20年近い歳月をへて完成しました。その中心をなしたのが、天守のある本丸です。現在の本丸には天守の建物しか残っていませんが、かつては藩主の居館（きょかん）である「御広間（おんひろま）」や「宝蔵」、そして「着見櫓（つきみやぐら」なども建っていました。<br>
天守は3階3重、つまり3階建て3重の屋根で構成されています。規模は比較的小ぶりですが、屋根は「切妻破風（きりづまはふ）」「入母屋破風（いりおもやはふ）」「唐破風（からはふ）」を多様に配しており、2階と3階には「花頭窓（かとうまど）
」、3階には高こう欄らん付きの「廻縁（まわりえん）」を巡らせるなど外観に重きを置き、変化に富んだ美しい姿を見せています。
</p>
<img class="left" alt="01_tenshu_02.jpg" src="http://hikone-400th.jp/castle/learn/learn/img/01_tenshu_02.jpg" width="220" />
<p>
その構造は、通し柱を用いないで、各階ごとに積み上げていく方式をとっており、全体として櫓の上に高欄を付けた望ぼう楼ろうを乗せる古い形式を残しています。昭和32年から35年にかけて行われた解体修理により、墨書のある建築材が発見され、天守の完成が慶長12年(1607)ころであることが判明しました。<br>
また、建築材を克明に調査した結果、もともと5階4重の旧天守を移築したものであることも分かりました。彦根藩主井伊家の歴史を記した『井伊年譜』には、「天守は京極家の大津城の殿守也」とあり、彦根城の天守が大津城（大津市）の天守を移築した可能性が考えられています。<br />
戦とともに発達したお城ですが、彦根城は一度も戦を経験することなく平和な江戸時代を送りました。この時代には藩主が天守を訪れることも余りなく、天守には歴代藩主の甲冑（かっちゅう）などが収納されていました。江戸時代の天守は、軍用建築というよりも、城下から見上げる彦根藩の象徴という役割を担っていたようです。
</p>]]></description>
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         <pubDate>Thu, 25 May 2006 02:07:25 +0900</pubDate>
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