竹生島ガイド

私達が、お客様をご案内するエリアは原則として市内に限られていますが、例外もあります。それが琵琶湖に浮かぶ竹生島です。竹生島は、昨年まではびわ町、今年2月から長浜市に所属する島ですが、彦根港からも観光船が出ています。
日本三弁才天のひとつで西国33ヶ所観音霊場30番札所の宝厳寺と産土神 浅井比売命(あざいひめのみこと)を祀った都久夫須麻神社、豊臣秀吉所縁の桃山時代の遺構を多数有する国宝・重要文化財の宝庫をご案内いたします。

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私達が、お客様をご案内するエリアは原則として市内に限られていますが、例外もあります。それが琵琶湖に浮かぶ竹生島です。竹生島は、昨年まではびわ町、今年2月から長浜市に所属する島ですが、彦根港からも観光船が出ています。
日本三弁才天のひとつで西国33ヶ所観音霊場30番札所の宝厳寺と産土神 浅井比売命(あざいひめのみこと)を祀った都久夫須麻神社、豊臣秀吉所縁の桃山時代の遺構を多数有する国宝・重要文化財の宝庫をご案内いたします。

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<三の丸、二の丸>
それは柿の実がなっている頃でした。鳥居本で柿渋を実演するイベントが催され、このイベントを企画した学生さんから鳥居本側から佐和山城跡へのコースをガイドしてほしいと頼まれた。女性3人、男性2人、私を含め6人のメンバーで歩き始めました。
<三の丸>
最初、馬冷池を見て、池の少し奥まで進むと、目的地の二の丸が目の上に見える。地元古老の話では、二の丸を右に見て、左側の傾斜部コースが「シラミ坂」だとのこと。(「シラミ坂」:佐和山城へ登城するときに、途中で夜が明けて明るくなる「シラム」から名づけられた坂。)
今では道もなく、もと来た道を戻り、三の丸を目指す。三の丸は島左近が詰めた所といわれている。ここまでは山道がはっきりついて、登り易い。しかし、この三の丸は防御に良い場所だろうか? なだらかな登り道と、左右は急勾配となっていて、守り易い所だろうかなと思いつつ、少休憩する。柿の実がなっている時期は、まだ下草が枯れていなく、丈夫で足に絡みつく強さがある。女子学生は足元・シャツなど充分な準備をしていたが、男子学生は低い山だと考えていたのか、靴とサンダル、シャツは半袖と軽装だ。「この時期だとまだ蛇が活動しています、足元を注意して下さい。また時々蜂も出ますので、半袖の人は気をつけて下さいね!!」と二の丸を目指す。

<二の丸>
二の丸へのコースは、それこそ藪また藪で、足元には山道があるが道を覆っている「つる状の草」や、小枝が藪をなしていて、先頭と離れたら、声はすれども姿が見えなくなる。
尾根状の所を歩き、二の丸の下、堀切に出る。二の丸の山側は急勾配だが、三の丸からの尾根伝いでは堀が埋っていて、浅い堀切である。しかし、防御面では良さそう。急勾配を枝やつるを手に登ると、フラットな所に出る。ここも背より高いブッシュの集まりで、全然先が見えない。(2005年末、彦根市文化財課によって、調査のため木々が伐採されており、意外と広いのにびっくりした。)
そして、二の丸へ到着、二の丸は別名土佐丸(井伊家家老木俣土佐守勝が詰めた)といわれ、三成時代には三成の兄正澄が詰めていた所である。二の丸の北側に一段下がった所がフラットになっており、ここには瓦が多く残っていて、三成の時代には瓦のある屋敷があったのだろうと推測される。
二の丸は展望も良く、急勾配の坂で保護されていて、弓矢の時代であれば充分戦える、良い砦の役目を果たしていたのだろう。また、400年間、誰もが手を加えていない、見事な堀切が残されている。(市文化財課の調査のため木々が伐採された後では、全体が良くわかる。)
そういえば、私の直ぐ後をサンダル履きの男子学生がついていた。「女性に前を歩かせて、男性は最後尾からお願いします!」と頼んだら、いかにも心細げな顔でついてきた。
しかし、この学生は今年(2006年)の3月にも、特別コースを依頼してきた。この時の彼の足元は、バッチリ決まっていた。
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<切通し>
岡崎のボランティアガイドの方々を彦根城及び足軽屋敷にご案内していた時、「次は皆様を私が佐和山にご案内します。」とお話しました。「彦根を語る時に、避けて通れないのが佐和山城跡です。交通の要所でもあり、石田三成、織田信長のお話もあります。」と大きくPRしたものだから、「わかりました。秋から冬にかけて来ます。」と具体化された。
それから、あわてたのは私の方でした。佐和山のハイキングコース以外のお宝を探そうとガイド仲間と目をつけたのが、土塁が残っている「太鼓丸」及びその近くの「切通し」でした。「太鼓丸」には何度か行ったことがあったが、「太鼓丸」から切通し側へお客様と一緒に歩けるのか? コースは地図を見ても書いてありません。そこで、仲間と弁当持参で、現地に出かけました。

すると、見事な史跡が次から次へと出てきました。
(1)まず「太鼓丸」を降りると、傾斜部の所に古い瓦が散乱していた。この瓦は、佐和山城を400年前に破城する時に、運搬途中に落としたものだろう。(この傾斜部には、建物の跡地がありません。)
(2)そして、切通しの上に出ます。ここは足元注意です。20m以上切れた崖となっていますが、見事な景色です。足元の所と向かい側の山を等高地図で調べましたら、160mの所がスパッと切り離されていました。
(3)更に降りたら、竹薮の中に石柱があった。嘉永7年の八幡宮常夜灯の銘が刻まれた1.3mの高さの石柱です。八幡宮は井伊神社の旧名ですので、昔の人々はこの火を頼りに、この峠(切通し)を越えたのでしょう。
(4)「古道」:石柱を下りると彦根側の古道へ出る。今は使われていないので、竹が道をおおっていますが、立派な古道であるのがわかる。そして、鳥居本側へ戻ると、切通しの狭い通路の下に出る。ここから見上げると、切り立った崖に驚きを感じる。また、もう少し鳥居本側へ歩いて後ろを眺めると、これは本当の古道を感じます。いかにも、この先の曲がり角から山賊が出そうな所です。この道を殿様が駕籠で通ったのだろう。そして、唯今、切通しを通過したとの信号(旗)を出して、彦根城の着見台に知らせた………であろうと思われる景観が残っている。
(5)「旧史跡」:切通しの所には、姫袋の千代神社があり、また法華丸の所には、古橋の末寺とか言われるお寺がありました。今は花しょうぶ通りにあるお寺(妙源寺)です。
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大老伊井直弼は、文武両道に優れた方でした。茶道においても、その一期一会の精神は良く知られているところです。私もお客様をご案内する時は、その出会いを大切にしたガイドを心がけています。
昨年四月のことでした。東京からお見えになり、ご城下巡回バスに乗られた方から、お手紙を頂戴いたしました。たまたま車中の案内のなかで、井伊直政は関が原の戦いの後、群馬県高崎から徳川家康の命により彦根に転封されたことをお話しました。お客様は西国三十三箇所巡りを旅の一つの目的にしており、近江の国三十番宝厳寺、三十一番長命寺、三十二番観音聖寺をお参りしたそうです。井伊家が高崎から移ってきたと言う話から、坂東三十三箇所巡りの折、箕輪城址と言う場所を通り、何故こんな場所に城を作ったのか?と疑問に思ったことを思い出し、かって井伊家の居城であったことを確認されたとのことでした。
また、奥様が山梨のご出身で、在京の武田一族の集まりがあるそうです。武田の家臣の一部が井伊家に召抱えられ、赤備えの伝統が引き継がれていることに感銘をうけたようです。
たった35分間のご城下巡回バスでの出会いですが、お手紙をいただき、ボランティアガイドとしてうれしく励みになりました。これからも一期一会を大切にガイドして行きますので、是非彦根にお立ち寄り下さい。お待ちしています。
