ガイドコースのご案内(G)「佐和山城跡 登山 コース」
JR彦根駅から龍潭寺まで徒歩(所要時間3時間)
JR彦根駅⇒龍潭寺前⇒龍潭寺裏手から登坂⇒佐和山城跡
⇒切り通し⇒湖東焼釜跡⇒石田三成屋敷跡⇒龍潭寺前
佐和山城
境目の城として、天文年間(1532~1555)には、北の京極氏(後に浅井氏)と南の佐々木六角氏が、勢力争いをした。姉川合戦(1570)の後、磯野員昌(浅井方)は7ヶ月間籠城を続けて、「難攻不落」の城と讃えられた。
織田信長が、安土城を築く(1576)までは、岐阜と京都の中間拠点の城として佐和山に丹羽長秀を置き、信長の城として活用したことは、「信長公記」に詳しい。
豊臣秀吉も、交通の要所として、堀秀政→堀尾吉晴→石田三成を佐和山に配した。
関ヶ原合戦(1600)の後、井伊直政が入城し、彦根城築城と共に佐和山城は廃城となった。

本丸跡
現在でも展望がよく、昔は松原内湖・入江内湖に守られた山城であることがよく分かる。東山道(中山道)・北国街道がよく見通せて、守りに適した要所だ。また彦根城と城下町も眼下に見渡せる。ここの山城の天守が、多賀(大君ヶ畑)の民謡に歌われているが、見事な城の名残であろう。
石垣
算木積の石が2個残っている。佐和山城の天守が五重(伝承)であった当時の大きい石である。全ての構造物を彦根城に移したと言われているが、何故この様な巨石だけが残ったのだろうか。
硝煙蔵跡
足元に飛散している瓦がある。400年前の瓦で佐和山城の屋根が瓦葺だったと言える。二の丸、太鼓丸の所にも欠けた瓦が飛散しているから、城の建物全体が瓦屋根だったのだろう。
女郎ヶ谷
落城の時、数千人の女性や子供が身を投じた所と言われている。敵に追われて本丸を出て、この地で身を投じたのだろう。しかし、何故この場所でと思わざるを得ない。傾斜もそれ程ではなく、10m下には脇道(古絵図にあり、現在もある)が通っているから、人の助けもあるだろう。本当に身を投じるならば、近くの千貫井戸の所が長く急斜面であり、敵には見つからないだろう。しかし、人が最期の時の行動として、次ぎの様にも考えられる。大手側(鳥居本)に身内が居ただろうから、家族の居る方へ向かって身を投じたのだろうかと…。
<ここまでは、通常のハイキングコースで見ることができます。>

三の丸・二の丸の跡
三の丸は尾根続きの山上にあり、ここが第一陣営で最初に敵と戦う所だ。しかし、現在では、堀切・土塁も分からないし、陣立ての様が見当たらない。三の丸から二の丸への道はガイドを要するが、二の丸はいかにも戦国時代の構造である。見事な堀切、切岸、瓦のかけら等、多くの史跡が残っている。
太鼓丸及び切り通し
このコースもガイドが有ったほうが良い。太鼓丸は土塁が残っていて、また太鼓丸の周りには瓦のかけらが多く残っている。太鼓丸の所には、佐和山城の重要交通路であった「切り通し」がある。切り通しは、尾根をバッサリ切ったV字型の道となっており、古道の面影が今でも残っている。江戸時代は、この道が朝鮮人街道として利用され、彦根藩主も駕籠でここを通った。切り通しの峠の所には、昔の人の通る道を照らしたであろう八幡常夜灯の石柱が残っている。
物生(むし)山
ここは堀切、竪堀、土橋がはっきり残っている珍しい所。信長が佐和山を攻めた時、北の山に市橋九郎右衛門を配置した(信長公記)。主郭虎口前面には横堀をめぐらせた小曲輪があり、馬出の役割をしている(「近江の城」中井均著)。この物生山は開発もされてなく、430年前の遺構と言える。中世から近世にかけての城郭研究を始める方には、ぜひお薦めしたい所。コースもはっきりしていて歩き易く、佐和山城跡の隠れたスポットである。










