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ようこそ彦根へ(7)「探してみよう!! 彦根城の転用材(一)」

 彦根城は色々なお城から部材を移して、建設されたお城です。他の所(城または寺など)で使用されていたものを、再使用のため異なった所に使った転用材が多い。
 それでは、何か証拠となるものを具体的に探してみましょう。幸いにも、彦根城は400年祭開催中です。普段は入れない、天秤櫓、西の丸三重櫓の建物内も見ることができます。
 さあー探してみましょう、転用材!! 例えば、「材木」「石」「鬼瓦」が証拠としてはっきり分ります。

「材木」について

(1)天秤櫓
 天秤櫓は、長浜城の大手門から移築されたと、文書にあります。それでは、どの部材が移築された(現在も残っている)ものでしょうか?
(ア)櫓門の柱(天守に向かって左側)の裏側には、2ヶ所の枘(ほぞ)穴があります。明らかに、この大きな門柱は転用材で、以前どこかで(長浜城の大手門)使われていた跡がはっきりしています。
(イ)建物内部にも一部枘穴のある梁はあります。しかし、それほど多くの転用材はありません。それは、「嘉永7年(1854)に解体修理上棟された」と、彦根城修復の歴史(彦根城博物館資料)にあり、この時に長浜城移築時の材料は少なくなったのでしょう。
P3280025(天秤櫓).jpg

(2)太鼓門櫓
 この門も、どこからか移築されたと、伝承されています。天守に登城する方向から見た門柱の左側には、くぐり戸がありますが、右側の門柱にはありません。しかし、右側門柱の裏側には、明らかに、くぐり戸を取り付けるために加工された所と、戸の留め金具跡があります。
 門柱の右側と左側を見比べますと、同じ加工がしてあることがはっきりします。このことから、以前に使用されていた門では、左・右側共にくぐり戸があったことが分ります。この門柱は、明らかに転用材です。
P3280030(太鼓門櫓).jpg

(3)西の丸三重櫓
 この建物は、嘉永6年(1853)に大修理されて、柱や梁などの8割近くが、移築時のものから江戸時代後期のものに取り替えられました。それでも、一部に転用材を見ることができます。
(ア)1階から2階へ上がる階段の床材に、枘穴のある梁があります。
(イ)「く」の字に曲がっている天守側多聞櫓の中央部内側柱に、枘穴のある柱があります。
(ウ)三重櫓の2階・3階にもあると思えますが、立ち入り禁止となっていますので、次の機会に調査します。
P4060012(春の西の丸三重櫓).jpg

天守については、次回「ようこそ彦根へ(8)~転用材(二)~」で、ご紹介いたします。


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ガイドコースのご紹介 「ご城下巡回バス コース」

彦根駅⇒市民会館前⇒彦根港⇒龍潭寺⇒護国神社前⇒彦根城⇒
夢京橋キャッスルロード⇒四番町スクエア⇒銀座街⇒京町⇒彦根駅
<季節限定コース(平成19年度は4月1日から11月25日まで毎日)>

龍潭寺
 天平5年(734年)行基菩薩により、遠江の井伊谷に開基された寺院で、慶長5年(1600年)藩祖井伊直政が佐和山城主となったのを機に、臨済宗妙心寺派井伊谷龍潭寺5代昊天禅師により、佐和山麓に移建開山されました。
 日本で一番最初に造園学「園頭科」ができ、当寺で学んだ僧たちが全国の禅寺の造園を手がけました。方丈南庭「ふだらくの庭」、書院東庭「鶴亀蓬莱庭園」など名庭も有名です。菩提樹、山桃、沙羅樹など花の寺としても親しまれています。方丈襖絵56面は、蕉門十哲の一人で、狩野安信に絵を学んだ森川許六が描いたものです。また寺院裏山の墓地には、彦根御前と慕われた井伊直弼の母の墓や、側室であった里和の文塚も残っています。境内入口に石田三成の供養塔や銅像もあります。
P4010082(龍潭寺).jpg

彦根城
 慶長5年(1600年)関ヶ原の合戦で勝利した徳川家康は、慶長8年(1603年)石田三成の佐和山城を廃し新たに琵琶湖を望む彦根山(金亀山)に彦根城築城を決定し、公儀奉行3人を派遣、7ヶ国・12大名(最多時36大名)に賦役を課す動員令を発令(天下普請)、翌年に着工し、天守ほか主要部分は2年で、城郭全体は彦根藩単独工事期間も含めて約20年の歳月をかけ元和8年(1622年)に、完成させました。
 完成した彦根城は三重の堀で囲まれ、外堀には7ヶ所の城門を配し、中堀には4道を開き、いずれも厳重な枡形の二重門を備え、内堀には5ヶ所に出入口を設け攻守にわたり要塞の機能を充分に備えるものでありました。
佐和口多聞櫓.jpg

夢京橋キャッスルロード・宗安寺
 切り妻の屋根・白壁・黒格子と、江戸時代の町屋風に統一された平成11年完成の約350mの街並です。
 その中ほど過ぎには、初代藩主井伊直政の正室 東梅院の開基した浄土宗「宗安寺」が有ります。その朱塗りの山門は「赤門」と呼ばれ、佐和山城の城門を移築したものと言われています。また黒塗りの小さな門は「黒門」と呼ばれ、朝鮮通信使の宿泊時に食料品などの搬入に使われたと伝えられています。
P3280074(宗安寺).jpg


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ガイドコースのご紹介 「多景島 語り部クルーズ コース」

彦根港⇒多景島周航⇒彦根港(島には上陸しません)
(乗船時間1時間)<夏季 限定コース>

多景島
 多景島は彦根港の西約6.5kmのところにあって、外周600m、高さ20mの小島で、見る方向により島の姿が様々に変化することから多景島と申します。
 この島には、明暦元年(1655年)に建てられた日蓮宗の見塔寺が有ります。寺伝によると、琵琶湖に沈んだ人々と魚介類の供養の為に、慈雲院日靖上人が開山した寺です。日靖上人は越前の国大野の出身で、長浜の妙法寺修行中の明暦元年、夢のお告げでこの島に渡りました。
 日靖上人は元禄5年(1692年)に、高さ6間(10.8m)幅4間(7.2m)の岩に「南無妙法蓮華経」の七文字を刻みました。この島の象徴の大題目岩で一文字の中に米一俵60kgが入ると云われています。
 彦根藩では3代藩主大老直澄が先代の菩提に供養を捧げて以来、城の裏鬼門として祈願供養を続けました。万延元年(1860年)3月3日桜田門外の変での大老直弼横死の際、このお題目岩が鮮血をにじませたと伝えられています。見塔寺には、今も彦根藩とのかかわりを示す古文書が数多く残されています。寺の釈迦堂に安置される仏像は、中国伝来の釈尊像で苦行を終え悟りの境地に至り山を出ようとする出仙釈迦仏であります。また島の中央に聳える「誓の御柱」は大正13年(1924年)建立の75尺(24.75m)五角形で、明治天皇の五ヶ条の御誓文が閑院の宮殿下のご染筆により刻まれています。

DSCN1819(多景島).jpg

彦根港の今昔
 昭和40年代前半の頃まで、現在の松原橋は水路と平行になる回転橋として人々に親しまれておりました。松原から城の搦手にあたる城北通り沿いの水路には、この回転橋の横を通過し200tの大型観光船みどり丸が入港して、水路の奥にある尾末町・船町の岸壁に接岸し、琵琶湖巡りのお客様の乗り降りで賑わっておりました。しかし昭和40年代前半に松原の琵琶湖岸に新しい彦根港が整備され、船町の港湾はその役目を終え、松原橋も固定橋となりました。現在この水路は、両岸から釣り人が糸をたれ、太公望憩いの場所となっています。
 新しく整備され彦根港からは、多景島と竹生島に観光船が周航しております。なお、この彦根港には「琵琶湖周航の歌」の彦根を歌った5番の歌碑が有ります。
     矢の根は深く 埋もれて
     夏草しげき   堀のあと
     古城にひとり  たたずめば
     比良も伊吹も 夢のごと

DSCN2220(琵琶湖周航歌碑).jpg