HIKONE Web ガイド

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ようこそ彦根へ(10)「探してみよう!! 彦根城の転用材(四)」

(3)西の丸三重櫓
(ア)この建物は建長11年(1606)に完成し、井伊年譜には「瓦は小谷山の土を用いて焼く」とある。小谷城移築の説が誤り伝えられた元となっている。瓦へら書によると屋根替は寛永10年(1633)に行われた。また嘉永6年(1853)には、土台まで取り替える大規模な解体修理が行われた(墨書銘による)。さらに明治19年には、屋根廻りの修理が行われた。
(イ)屋根瓦の葺替は、古い瓦(建長時期)と寛永瓦が全体の3割近く、嘉永瓦が5割、残りが明治以降のものだった。このことから、使える部材(瓦)は利用し、他の所で使われていた部材も転用されていたことが分かる。
(ウ)鬼瓦も18個あり、当初のもの3個、嘉永9個、明治以降6個だったが、この内15個を取り替えた(滋賀県教育委員会1962年資料)。古い鬼瓦3個の内1個は三重櫓の東続櫓(天守側)にあり、三つ柏のような、橘を変形したような瓦紋がある。
(エ)ガイドをしていた時に大工の棟梁の方からお教えいただいたのだが、この天守側の櫓屋根で切妻の所は雨しまいを施工してなく、本瓦葺きの平瓦のままであった。瓦を重ねる長さ・粘土など、瓦の施工方法がよく分かるものが残っている。

(4)天守
 彦根城の美しさの一つが、屋根にあります。屋根を飾る破風が多いこと。また最上重に唐破風を用いるのは、「黒田家屏風」に画かれている「大坂城天守・姫路城天守・宇和島城天守」にも見えるが、現存するものでは彦根城天守が最も古い。
 屋根の鯱が金箔となっています。彦根城は織田信長、豊臣秀吉が関係する城でもありません。なぜ、金箔が使われているのでしょうか。昭和34・35年に彦根城天守の大修理が行われました。その時に、金の鯱の断片が発見され、それによって推定復元を行った(滋賀県教育委員会 彦根城修理報告書)。
 彦根城は大津城の移築です。大津城が金箔瓦を使用していたのだろうか。当時の大津城主 京極高次は、その前は近江八幡城主です。そして大津城もまた近江八幡城からの移築と言われています。近江八幡城は豊臣秀次の頃金箔瓦だったので、これが彦根城まで転用されたのでしょう。しかし、附櫓の展示品鯱瓦(素焼品の黒色)は、いつの時期に作られたのだろう。これが疑問点として残ります。

P3280045(天守・続櫓・多聞櫓).jpg
(5)続櫓・多聞櫓
 続櫓の建築された時期は不明ですが、天守完成の2・3年後、または元和の時代かもしれません。ここに使用された鬼瓦も、転用材と言えるものが多くあります。瓦紋は井桁のみならず、三つ柏の模様、橘等々種類が多い。黒門側に下りる時に、屋根を見上げてください。
 なお、多聞櫓は慶安3年(1650)に付け加えられた櫓です。

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ようこそ彦根へ(9)「探してみよう!! 彦根城の転用材(三)」

「瓦」について
今回は瓦について、興味あるお話をします。皆さまも、ぜひ彦根城の瓦を見て、新しい発見をしてください。

(1)天秤櫓
(ア)この櫓は、長浜城の大手門を移築したと、井伊文書に記してあります。彦根城の築城が慶長9年(1604)で、この時期の長浜城城主が誰かは不明ですが、慶長12年(1607)に内藤信成が入城します。それから元和元年(1615)に廃城されるまでは、長浜城の大手門は活用されていたと推定されます。そして、彦根城へ移築された時の転用材として、瓦も当然含まれていると思われます。
(イ)この天秤櫓の鬼瓦には、興味が有ります。天守に向かって右側の櫓にある鬼瓦は上り藤の家紋だが、左側は三つ柏の模様となっている。三つ柏は山内一豊(天正12年~18年まで長浜城主)の家紋であり、内藤家の家紋は下り藤である。
(ウ)また、天秤櫓の裏側・現在400年祭の会場入口から屋根を見ていただくと、二重櫓側の屋根降棟鬼瓦は三つ柏、隅棟部の鬼瓦は上り藤、また正面左側の鬼瓦は全て井桁となっている。
(エ)嘉永7年(1854)に、天秤櫓は大修理された。そこで、鬼瓦が新しく井桁になるのは分かるけれど、なぜ異なる鬼瓦が多く使用されているのだろうか。長浜城からの転用材なのか。長浜城主の内藤家の家紋は下り藤なのに、ここの鬼瓦はなぜ上り藤なのか。
(オ)天秤櫓の鬼瓦は、「不思議な」集合体の屋根瓦になっています。現在の瓦であれば、規格化された同一品となると思うが、江戸時代の鬼瓦は転用することが標準だったのでしょうか。「不思議」です。
PA290007(天秤櫓・右側).jpg

(2)太鼓門櫓(門柱はケヤキ材)
(ア)天守に登城時の門の上は、井桁の鬼瓦となっている。しかし、L形の続櫓の鬼瓦は上り藤で、松原瓦師 善九郎(寛政8年)の銘がある。
(イ)昭和30年の全解体報告書(滋賀県教育委員会、1957年)によれば、東側廊下手摺作成の墨書(文政9年)及び鬼側には松原の瓦師善九郎(寛政8年)があり、文政年間の建物修理は大規模だった。天守の鬼瓦にも寛政8年の瓦師善九郎の銘があり、寛政年間には瓦の屋根替修理が行われたことが分かる。江戸後期なのに、一部分の鬼瓦のみ、なぜ井伊家と異なる瓦紋を使用するのだろう。転用瓦の一種だろうか。
P6010120(太鼓門櫓屋根).jpg

次回は、「西の丸三重櫓」と「天守」について、ご紹介いたします。

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ようこそ彦根へ(8)「探してみよう!! 彦根城の転用材(二)」

彦根城天守(春2小サイズ).jpg

(4)天守
 大津城からの移築と、文書に記してあります。それでは、どれほどの部材が再使用された(現在も残っている)ものでしょうか?

(ア)附け櫓の天井は、曲がりくねった材木で小屋組みされた建物です。当時を考えれば、これほど曲がった材木を使用しなくても、太くて大きな材木がいくらでも入手できたろうにと、思われます。
私がガイドした、ある棟梁(大工の頭)の方のご感想は、「この小屋組みは、当時の大工さんの趣味で築城されたのではないか?」「太い材料と細い材料の接合、曲がった材料等の組み合わせは、時間を多くかけて考えた趣味以外のこととは思えない。」とのことでした。
ともあれ、ここにも細い材木の「枘(ほぞ)穴」があり、中央部で見つけ易いです。

(イ)1階の武者走り(附け櫓から階段を登って左側へ)、武者溜りの手前天井に大きな梁があります。この梁にも、斜めに切られた大きな枘穴を見つけることができます。この枘穴の反窓側80cm位の所に、小さく底の浅い枘穴が加工されています。同じ間隔で2ヶ所あります。
栃木から来られた大工さんが「この材木はここに使用される以前は、この梁の下に壁がありましたね」とのことで、転用材に間違いありません。

(ウ)1階武者溜りには、多くの転用材を見つけることができます。学生さん達を連れて、転用材探しをする機会がありました。すると、この場所の明るさもあって、学生さん達は大いに張り切り、ガイドが知らない所も探し出しました。この場所では、転用材が大いに勉強できます。ぜひ一度、試してください。
 ちなみに転用材のある場所は、
①.2階から階段を下りて、1階直ぐの真上の大きな梁には、枘穴を埋めています。また、枘穴の下には数字があります。(何のための数字でしょうか?)
②.大きな梁の奥と左側にも、さらに梁の上と柱などにも多くあります。また、窓側の柱も、枘穴のある材木です。

(エ)その他転用材のある場所
①.1階階段を上る前の、ロープが張っていない部屋の天井に大きな枘穴があります。
②.2階展示品のある部屋の奥中央天井の梁には、枘穴がある材木があります。
③.その他、武者走りの所の小梁にも、枘穴を埋めた材木を多く見かけます。ぜひ、探してください。

P3280044(天守梁).jpg

前回と今回は、「材木」の転用材についてご紹介しましたが、次回からは、「鬼瓦」と「石」についてご紹介いたします。