ようこそ彦根へ(9)「探してみよう!! 彦根城の転用材(三)」
「瓦」について
今回は瓦について、興味あるお話をします。皆さまも、ぜひ彦根城の瓦を見て、新しい発見をしてください。
(1)天秤櫓
(ア)この櫓は、長浜城の大手門を移築したと、井伊文書に記してあります。彦根城の築城が慶長9年(1604)で、この時期の長浜城城主が誰かは不明ですが、慶長12年(1607)に内藤信成が入城します。それから元和元年(1615)に廃城されるまでは、長浜城の大手門は活用されていたと推定されます。そして、彦根城へ移築された時の転用材として、瓦も当然含まれていると思われます。
(イ)この天秤櫓の鬼瓦には、興味が有ります。天守に向かって右側の櫓にある鬼瓦は上り藤の家紋だが、左側は三つ柏の模様となっている。三つ柏は山内一豊(天正12年~18年まで長浜城主)の家紋であり、内藤家の家紋は下り藤である。
(ウ)また、天秤櫓の裏側・現在400年祭の会場入口から屋根を見ていただくと、二重櫓側の屋根降棟鬼瓦は三つ柏、隅棟部の鬼瓦は上り藤、また正面左側の鬼瓦は全て井桁となっている。
(エ)嘉永7年(1854)に、天秤櫓は大修理された。そこで、鬼瓦が新しく井桁になるのは分かるけれど、なぜ異なる鬼瓦が多く使用されているのだろうか。長浜城からの転用材なのか。長浜城主の内藤家の家紋は下り藤なのに、ここの鬼瓦はなぜ上り藤なのか。
(オ)天秤櫓の鬼瓦は、「不思議な」集合体の屋根瓦になっています。現在の瓦であれば、規格化された同一品となると思うが、江戸時代の鬼瓦は転用することが標準だったのでしょうか。「不思議」です。

(2)太鼓門櫓(門柱はケヤキ材)
(ア)天守に登城時の門の上は、井桁の鬼瓦となっている。しかし、L形の続櫓の鬼瓦は上り藤で、松原瓦師 善九郎(寛政8年)の銘がある。
(イ)昭和30年の全解体報告書(滋賀県教育委員会、1957年)によれば、東側廊下手摺作成の墨書(文政9年)及び鬼側には松原の瓦師善九郎(寛政8年)があり、文政年間の建物修理は大規模だった。天守の鬼瓦にも寛政8年の瓦師善九郎の銘があり、寛政年間には瓦の屋根替修理が行われたことが分かる。江戸後期なのに、一部分の鬼瓦のみ、なぜ井伊家と異なる瓦紋を使用するのだろう。転用瓦の一種だろうか。

次回は、「西の丸三重櫓」と「天守」について、ご紹介いたします。







