HIKONE Web ガイド

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ようこそ彦根へ(12)「NHK大河ドラマ風林火山と彦根藩士(一)」

 今年、NHK大河ドラマ「風林火山」が放映されています。このTVの中に、彦根藩士の祖先と思われる人物がよく出ています。
 彦根藩は井伊家の石高が多くなるに毎に、今川・武田家の中から、たくさんの人材を召し抱えました。
 そこで、主な藩士を「侍中由緒帳」(彦根城博物館出版)より調べてみました。
 < >内の人員は大洞弁財天祠堂金寄進帳(元禄8年、1695年)

①木俣 清佐衛門 家(屋敷の場所は、佐和口門の側)
(ア)石高:1万石、三河の出身、<452人>
(イ)初代「守勝」、通称 清佐衛門、後に土佐と称した。
(ウ)徳川家康の家臣であったが、天正10年家康の甲州計略後の10月に武田遺臣を井伊直政の付属としたとき、家康の命により甲州侍の物頭となった。
(エ)椋原政道・西郷正員と共に、家康のもとから井伊直政の付家老になった。
TVには出てないが、彦根藩の筆頭家老として取り上げた。

②庵原 助右衛門 家(屋敷の場所は、大手門前の裁判所)
(ア)石高:5,000石、駿河今川の被官、彦根藩の次席家老、<422人>
(イ)初代「朝昌」、通称 助右衛門、今川家の被官(上級武士に下属して家臣化)
(ウ)朝昌の相続後、今川家(今川氏真のとき)を去り、武田勝頼に仕官した。
(エ)その後、戸田氏繁に仕官し、秀吉の朝鮮出兵時には戸田家中として従軍する。
(オ)慶長元年(1596)に上野国箕輪にて、津田信成の仲介で直政に召し抱えられる。
(カ)慶長2年(1597)、箕輪を去り浪人になる。
(キ)直政の死後、清洲の松平忠吉の取り持ちにより帰参する。家老加判2,000石。
(ク)TVドラマでは、庵原弥右門尉・庵原安房守忠胤(庵原山城の城主)の名は出てくるが、彦根の庵原との関連はよく分らない。

③長野 十郎左衛門 家(屋敷は、彦根東高校のある場所)
(ア)石高:4,000石、上杉家、箕輪出身、<251人>
(イ)初代「業実」、通称 伝蔵のち民部、十郎左衛門。
(ウ)TVドラマによく出ている、上杉系で武田とよく戦う、箕輪城主「長野美濃守業政」は祖父。父は「長野業親」で、母は井伊直政の知るところの者。
(エ)業実は家康に召し出され近習となり、天正8年(1580)には箕輪で直政の小姓を務める。
(オ)慶長6年(1601)2,000石、大坂の陣後、庵原朝昌と共に家老職になる。
(カ)2代目以降も家老職を務め、庵原助右衛門家に次ぐ家格は、江戸時代を通じて変わらない。

④西郷 藤左衛門 家(屋敷の場所は、京橋口門の側)
(ア)石高:3,500石、遠州国西郷出身、<169人>
(イ)初代「正員」、通称 藤左衛門、
(ウ)幼少より家康に仕える、天正10年(1582)家康の関東入国時に、井伊直政が上野箕輪に封じられた際、家康の命で直政の付家老となる。
(エ)軍役は小牧・長久手ほか、関ヶ原の時は箕輪城の留守居城代。2代目重貞が先発で強力な軍団で参戦する。当時の筆頭家老 鈴木重安と並ぶ勢力を持っていた。
(オ)しかし、2代目が早世したため実子が9才で当主となり、大坂の陣では、西郷家としては活躍の場がなく、木俣家のような加増チャンスは活かせなかった。
まだTVには出ていないが、西郷は三方原の戦・長篠の戦で活躍するので、今後出てくるかもしれない。

 次回に引き続き、ご案内します。

江戸後期の第一郭、第二郭.jpg

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まだお逢いしていないお客様へ

 連日猛暑が続き何十年振りかで日本の最高記録を更新した今年の夏も、さすが9月に入ると秋の気配が感じられるようになりました。城山に登ると琵琶湖の上に掃いたような雲が浮かび、赤とんぼが悠々と空を舞うのが見られます。玄宮園では「虫の音を聞く会」として夜のライトアップも始まり、賑やかに秋の虫が鳴いております。こうして月日は移り、季節が変わっていくのだとしみじみ感じております。
 ご承知のように3月から11月25日までとしてスタートした「築城400年祭」も、3分の1を残すのみとなりました。「ワダエミ衣裳」「北近江の城」「世界遺産レゴ」「開国資料」等々の各展示も好評の内に終了して、これからはラストスパートイベントが続きます。

西の丸三重櫓特別展.jpg
 ここで現在開催中のイベントを1部ご案内させて頂きます。重要文化財の西の丸三重櫓では、「ホリヒロシの人形展」が開催されております。1日の初日にはホリ氏も来られて、珍しい人形舞が披露されたり、本のサイン会もありました。私も長い行列に並びましたが、何と東京から10人余りの自称「追っかけ」のご婦人たちが来られたのには驚きました。
 源氏物語、平家物語、谷崎、三島、泉鏡花、歌舞伎、能などを題材に、170cm程の人形が重文の櫓の中に幻想的に並んでおります。これらの人形を見ていると、ただ器用だけで作れるものではなく、文学、歴史、芸術、美術などの教養の深さが感じられ、人形に命があるようにも思われるのです。
 何度かお客様をご案内いたしましたが、私のつたない表現力ではとても言い表せない素晴らしい人形で、お客さまも感激なさいます。また作者についてのビデオが20分映されますが、何とか時間を割いて見られると、作者の思いも理解できると思いました。

天秤櫓特別展.jpg
 この人形展の櫓と、展示物はありませんが天秤櫓は、築城400年祭イベント中の特別公開です。建物の柱、用材、壁の厚さの違いや菱格子の意味、窓から見える廊下橋などをじっくり見学できます。
 彦根に行こうか迷っておられる方、もう一度行ってみたいと思っておられる方、まだお逢いしていない多くの方々へ、私どもボランティアガイドが、ぜひおいで頂きたく、メールをお送りさせて頂きました。
 お待ちしております!!

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朝鮮通信使ガイド

 去る8月1日、今年朝鮮通信使開始400年を迎えるに当たり、韓国より32名の方々(教授・学生・一般・放送関係)が来彦されましたので、彦根城・玄宮園・朝鮮通信使が通った道(朝鮮人街道)、そして関連する宗安寺・江國寺をご案内しました。特に江國寺では、1655年に来彦の朝鮮国雪峰が揮毫した「江國寺」と言う扁額に興味を示されました。
<※「雪峰」は明暦元年(1655年)の第6回通信使の書記であった金義信の号>
江國寺扁額.jpg

 宗安寺は朝鮮通信使の三使臣(正使・副使・従事官)の宿泊の場となりました。そして300~500名からなる大使節団は、宗安寺のほか市内のお寺(江國寺・大信寺・明性寺・蓮華寺など)と商家などに分宿されました。彦根藩では一大事業として藩挙げての歓待をし、その費用も莫大な額でした。
 通信使は中山道から野洲行畑で分岐し、永原・江頭・近江八幡・安土・能登川・稲枝・山崎山・後三条を抜け、彦根城下を通りました。1811年まで12回来日し、そのうち10回は彦根で宿泊しています(2回目は京都・12回目は対馬まで)。
P3280074(宗安寺).jpg

 そもそも朝鮮通信使とは、朝鮮国王が日本の武家政権の首領つまり江戸幕府徳川将軍に派遣した公式の外交使節です。徳川将軍の襲職のたびに、祝賀のため来日することが公事化されていました。将軍からの朝鮮通信使派遣要請を、対馬藩宗氏が朝鮮王朝に取り次ぎ、国王が日本行きを決定することで、正使以下一行の官職と人員が編成されていました。
 築城400年祭の関連イベントとして、10月8日朝鮮通信使の行列が行われます。32名のうち何人かの方は、その行事のため改めて来彦されるそうです。通信使の来日は、鎖国を基盤とする江戸時代における、日本国と朝鮮国との交流の絶好の機会であったようです。龍潭寺の白いムクゲは、この交流の一つとして朝鮮通信使が持って来たと伝えられています。