列伝〜井伊家十四代〜

第2回 孤高の赤鬼~井伊直政 其の壱~

戦国の世にあって、数々の艱難辛苦を味わってきた井伊氏。謀略と戦乱の末、ついにわずか二歳の嫡男を残すのみとなる。その子の名は、虎のように強く、常磐の松のように栄えるようにと名づけられた「虎松」。この虎松こそ、後に「井伊の赤鬼」と呼ばれ、徳川四天王筆頭に数えられる猛将・井伊直政の幼き日の姿であった。

井伊直政が誕生したのは永禄四年(1561年)の井伊谷であるとされる。時は戦国。折りしも、甲斐国(注1)の武田信玄と越後国(注2)の上杉謙信が壮絶な戦闘を繰り広げたとして有名な川中島の戦いと同年である。直政の幼名は虎松。虎のように強く、常磐の松のように末永く栄えることを願ってつけられたその人生は、生を受けたその瞬間から動乱の中に生きることを宿命づけられていたのかもしれない。

虎松が生まれる前年、祖父・直盛が桶狭間の合戦(注3)で戦死している。生後1年で父・直親が謀殺され、その翌年には高齢ながら再び当主を継いでいた曽祖父・直平が毒殺された。たった3年間で次々と当主が命を落とした井伊家には、もう総領を継げるものは幼い虎松を残すのみとなっていた。 さすがに年端もいかない幼子が国政を行うわけにもいかない。また、同じ頃虎松の母はすでに浜松頭陀寺の松下家に再婚していたため、虎松を養育する者もいない。この時、虎松の後見人として名乗りを上げたのが次郎法師祐圓尼である。後に女性地頭と呼ばれ、女性ながら戦国時代の一国の政を執ることになる。虎松はその庇護の下、八歳まで育てられる。

永禄十一年(1568年)、徳川家康が三河(注4)より奥山を越えて遠州(注5)に進出。井伊谷を中心に遠江国を治めていた井伊家はその所領する土地もろとも家康の支配下に置かれることとなった。この時、龍潭寺南渓和尚の手により虎松は戦乱を避け、奥三河の鳳来寺へと逃がされていた。実質、井伊家は城も領地も家臣団も失い、その家中には虎松一人きりの状態となったのである。
天正三年(1575年)、父・直親の十三回忌法要を執り行った際、次郎法師とその母・友椿尼、南渓和尚が相談し、虎松を家康の家臣にすることを決める。戦国の世に生きる処世術であろう。虎松十五歳であった。家康が三方原へ鷹狩りに出たのにあわせて、井伊家の親類である松下源太郎と次郎法師に付き添われ、虎松は家康に謁見。父・直親と親交のあった家康は虎松を家来とした。自分の幼名・竹千代にちなみ、虎松に万千代を名乗らせた家康は、三百石を付与するのであった。当時、城も家臣もない一介の武士に三百石はかなりの俸禄である。家康が何故、急に現れた虎松にそこまでしたのか。それは単に、父・直親との親交が理由だけではなかったのかもしれない。
ともあれ、家康の家臣団に加わった虎松改め井伊万千代は、武勇を天下に知らしめていくことになる。

遠州東部の高天神城は、徳川氏と武田氏のせめぎ合いで入れ替わり立ち替わり占拠しあう、緊迫した拠点であった。天正四年(1576年)、家康が出陣すると、井伊万千代もそれに従った。出陣の前に家康のお声掛かりで、男子が始めて甲冑を着るときの儀式「甲冑着初め式」を行っていた万千代は、威勢よく初陣に臨み、家康の寝所に忍び込んだ敵の忍者を討ち取り功名を上げた。この働きにより、井伊家は三千石に加増されることになる。
家康からの寵愛も強かった万千代は、その翌年には一万石、そのまた翌々年には二万石と俸禄を急激に増やしていく。そして、天正十年(1582年)。織田信長の甲州征伐に参加した家康と供に万千代も参戦。信長家康連合軍は武田勝頼率いる戦国最強と謳われた武田軍勢(注6)を打ち破り、甲州を平定した。
信長は家康への褒美として、駿河国(注7)を与え、その返礼として家康は安土城を訪ねる。同年六月、家康を大阪・京都で歓待しながら中国地方の毛利氏領地下に手を伸ばそうとしていた信長は家臣の明智光秀の謀反により志半ばで討たれてしまう。世に言う本能寺の変である。
光秀謀反の報せは、ちょうど大阪の堺にいた家康の耳にも届いた。堺から家康の居城である駿河まで、通常の街道を選べば光秀がいる京都を通過しなければならない。信長と懇意であった家康もまた、光秀軍に命を狙われている。それを回避するために、家康は鈴鹿山中伊賀の山越えをして伊勢まで出、そこから駿河へ帰ることを決断した。河内、山城を経て伊賀路に至る難所には、光秀の勢力や山賊が待ち構えていた。辛くもそれらを交わしながら、伊勢まで辿り着いた家康は海路より三河国岡崎城まで帰りつくことができた。井伊万千代もこれに従っており、伊賀越えでは勇壮な働きを見せ、家康を守ったという。この時の働きへの褒美として万千代は家康から孔雀の羽で織った陣羽織を授かる。この陣羽織は今も新潟県三島郡与板町の歴史民俗資料館に保管されている。
その年の秋。万千代は家康に従って甲州に入国する。
十一月。万千代元服。二十四代井伊兵部小輔直政を名乗る。この時、家康が配下としていた武田二十四将の一人・山県昌景の家臣団を井伊家臣団に加えた。山県昌景は兜から甲冑具足に至るまで真っ赤に染め上げた赤備え(注8)を軍勢のシンボルとしていた。これに感化された直政は、家臣団を赤一色の赤備えにする。
時に直政二十二歳。後に「井伊の赤鬼」と呼ばれた伝説の始まりである。

其の弐へ続く

お詫びと訂正 2007.5.14

本稿において以下の表記に誤りがありました。お詫び申し上げます。
該当箇所の訂正を行いました。

訂正箇所
「家康が旧武田家臣山県昌景を井伊家臣団に加えた」を「家康が配下としていた武田二十四将の一人・山県昌景の家臣団を井伊家臣団に加えた」と訂正いたしました。

注)山県昌景は長篠の合戦(1575年)で戦没しており、その家臣団は家康が配下としていました。この時、家康から家臣として直政に与えられました。

注1)甲州。現在の山梨県。
注2)現在の新潟県。
注3)織田信長と今川義元の合戦。井伊家は今川氏の支配下にあり、参戦していた。
注4)三州。現在の愛知県西部。
注5)遠江(とおとうみ)国のこと。現在の静岡県西部。
注6)武田氏は信玄亡き後も、息子の勝頼が統率し、最強の騎馬軍団を誇っていた。
注7)現在の静岡県東部。
注8)赤備えばかりが有名だが、他にも黄一色の黄備えなどというものもあった。赤備えを着ている軍勢は強いという噂があり、直政もそれに倣ったともいわれる。

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