列伝〜井伊家十四代〜

第6回 鬼を継ぐ夜叉~井伊直孝 其の壱~

江戸幕政を語る上で欠かすことができない存在、井伊家。譜代大名の中で大老職を輩出した数は群を抜く。
江戸幕府で最高職といわれる大老.。その元となる元老にまで選ばれたのが、彦根城2代目城主にして、井伊家二十六代、掃部守直孝である。
その姿は赤鬼と呼ばれた父に引けをとらないものであった。

井伊直政の次男・弁之助が誕生したのは、兄・万千代と同じ天正十八年(1590年)のことであったといわれる。弁之助はその出生からして謎に包まれている。まず、母親が判然としない。直政の侍女であったとも、駿河国の農民の娘だったとも伝えられている。出生地もまちまちで、駿河国藤枝(注1)か隣町の焼津とするのが有力な説である。
一つのとある風聞が古くから伝わっている。
曰く。「弁之助は徳川家康の落胤である」
その真偽は定かではないが、この二人は容姿から言動までよく似ていたらしい。
弁之助は、やがて井伊家当主を継いで彦根城2代目城主・直孝となる。徳川幕府からの信頼も篤く、加増に加増を重ねられ、十五万石からスタートした彦根井伊氏は直孝の代で三十万石(+城付米五万石)という譜代大名でも有数の大大名に落ち着くのである。

弁之助は、やはり正室の子ではなかったためか、兄の万千代と違い、父親の側で育てられるということはなかったようである。6歳で上野国安中の北野寺に預けられ(注2)、そこで幼少期を過ごす。父と離れて暮らす弁之助にとって、当時音に聞こえた直政の武勇は憧れであったに違いない。いつか数える程しか会っていない父のようになりたいと幼い弁之助は思いを馳せたのである。
こんなエピソードがある。
弁之助が13歳の時、近くの民家に盗人が入るという事件があった。それを聞きつけた弁之助は夜半にも関わらず犯人を追いかけて捕まえる。この勇敢な出来事は、父・直政の耳にも入り、上州箕輪の居城に弁之助を呼び寄せた。弁之助にしてみれば僥倖である。憧れの父に会えるのだ。それは天にも昇る思いであったのかもしれない。直政に呼び出された弁之助は、雪が吹き込む場所にひざまずき、微動だにせず父を待ったという。緊張していたのだろうか。その様子に感動した直政は、褒美として子犬を一匹与えたという。

慶長五年(1600年)。赤鬼と恐れられた父・直政が天下分け目の関ヶ原で被弾すると、兄の万千代が直継と改名して家督を継いだ。同じ頃、弁之助も井伊直孝と名乗りを改め、父の居城である近江国佐和山城内に移り住んだ。
2年後、戦傷で直政が落命し、兄が新しく築城を始める。
慶長十三年(1607年)。上州刈宿(注3)五千石に移り住む。未だ、歴史の光は直孝には降り注いでいない。そのまた2年後、慶長十五年(1609年)。直孝は一万石に加増される。そのとき、予想だにしなかった巡り会わせが起こる。徳川二代将軍秀忠の側近くに仕えることを家康から命じられたのである。
何故、家康がそれを命じたのかは判然としない。父・直政がお気に入りだったからなのか、そのほかに直孝を取り立てる理由があったのか。
そして、このときから幕政に欠かせない井伊直孝の歴史は始まるのである。
このころ直孝は京都伏見城在番を勤めている。

慶長十九年(1614年)。関ヶ原からの禍根を巡り、江戸徳川家と大坂豊臣家最後の衝突となる火蓋が切って落とされた。世に言う「大坂冬の陣」(注4)である。

井伊家も徳川家譜代大名として先陣を命じられる。しかし、当主の直継は生来病弱で、武将としての貫禄にも欠けていた。そこで、白羽の矢が立ったのが直孝である。
直孝は兄に替わり、井伊宗家四千の軍勢の頂点に立たったのである。
これは、またとない好機であった。
赤鬼と恐れられた父の気性をもっとも色濃く受け継いでいたのが、他ならぬ直孝であった。寡黙で剛健、誠実でひたむきなその様は、幼い頃に憧れた父の姿であった。
その影を踏襲するかのように、鬼の角のような天衝をあしらった兜、甲冑具足まで赤一色に染め上げられた赤備えを身に纏い、先頭に立って戦乱の中に飛び込んでいったのである。
直孝は後世にこう呼ばれることになる。「井伊の赤牛」、そして――。
夜叉掃部やしゃかもん」。
鬼を継いだ夜叉(注5)の姿であった。

大坂冬の陣は苛烈な戦であったという。
豊臣側は関ヶ原のときに比べると数が減ったとはいえ、後藤、長宗我部、木村、真田と歴戦の武将たちが未だに残っていた。数で勝る徳川軍も劣勢を強いられることが少なくなかった。
直孝は徳川家康の近親である松平忠直とともに大坂城攻略の内、八丁目口突破を任されていた。当初は、勝敗はあっという間に決まるだろうと誰もが思っていたという。直孝とて、それは例外ではなかった。
それは父譲りの赤備えの装束が証明していた。
これまでどんな戦でも、井伊家は赤備え隊を率いて勝ち鬨を挙げてきたのである。勝利の条件のようなものだった。
しかし、直孝の考えもよもや及ばなかったのであろう。
赤備え隊は、井伊家に限られた特権ではない。
豊臣軍として八丁目口に布陣を敷き、直孝を待ち構えていたのは、真田幸村率いる赤備え隊であった。
戦国時代。
強さの象徴といわれた赤備え同士が邂逅したのである。

其の弐へ続く

(注1)現在の静岡県藤枝市。ここに直孝が産湯に使ったと伝わる井戸があり、直孝建立の若宮八幡宮がある。隣は焼津市。焼津市中里が直孝出生地とする説もある。
(注2)農家に預けられたという説もある。
(注3)現在の群馬県渋川市白井周辺地域。
(注4)江戸幕府が豊臣家を滅ぼした戦い。大坂の役とも。翌年の「夏の陣」とあわせて語られる。
(注5)古代インド神話や仏教経典に登場する悪鬼のこと。

このコーナーについて

彦根城にまつわる「列伝」へようこそ。
時代を創造してきた様々な先人たちの視座を振り返り、歴史を紐解いていきます。過去と現在をつなぐミッシング・リンクを浮き彫りにすることで、より鮮明な彦根城の姿を描くことができるようになるでしょう。
これは精緻な歴史年表ではありません。彦根城を象る物語なのです。

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