第7回 鬼を継ぐ夜叉~井伊直孝 其の弐~
直孝が目指したのは父の背中であったのか。 彦根城下町を形作り、江戸幕府において井伊家の地位を確たるものにした二代城主は夜叉と呼ばれた男であった。
大坂冬の陣は血で血を洗う凄惨な戦いであった。
謀略と裏切りと罠と混戦で敵味方問わず、双方多大な戦死者を出していた。
そんな中、井伊直孝は彦根藩兵4000を率いて赤備えの先陣に立っていた。
迎えるは、真田幸村(注1)の赤備え隊。
これが並みの武将であるなら、あるいは、直孝の敵ではなかったのかもしれない。父、直政と同じく、戦場を真っ先に駆け抜け、数々の武功を挙げることができたであろう。しかし、相手は真田。「日の本一の兵(つわもの)」と呼ばれた智将である。その巧みな戦術の前に直孝は武運にも見放されるのである。
当初、豊臣側の真田幸村が出城として構えていた真田丸は、徳川家臣の前田利常が攻めていたが真田の挑発に踊らされその軍勢を瓦解させてしまう。
利常軍の突撃を見て居ても立ってもいられなくなったのが井伊直孝と松平忠直であった。血が騒いだのであろう。直孝は「我々も!」と急に突撃を開始した。
しかし、真田幸村はそれを事前に読んでいた。完璧なまでの防御がすでに完成していたのである。二重の柵の間にはまり、身動きが取れないでいる直孝軍を豊臣側の木村重成(注2)が一斉射撃。次いで、横から参戦した真田軍も射撃に加わり、直孝軍は500人の死者を出す大被害となった。
豊臣軍はある程度痛めつけると、また城内へ引き返していった。
直孝は、兄の替わりに参戦したこの戦で、敗北の苦汁を嘗めたのである。
戦はなんとか講和を迎える。
結果としては、大坂城の外堀を埋めるという徳川に有利な形で終えることとなったが、受けた傷跡は浅いものではなかった。
直孝は、急に突撃をしたことを軍令違反として徳川秀忠に咎められ、処罰されかかったが、家康が「味方諸軍を勇み立たせる結果となった。よくやった」と褒めたため、処罰は免れた。
翌年。
慶長二十年(1615年)、直孝は家康より正式に彦根城主に命じられる。18万石の内、15万石を拝領。残り3万石は兄・直継にわけられた。二代目城主の誕生である。
しかし、冬の陣で無様をさらした直孝に何故、こうも家康は入れ込むのか……。
落胤という噂は、あながち間違いではないのかもしれない。
同年5月。
再び大坂で戦役が勃発する。世に言う夏の陣である。
直孝は前回の汚名返上のためにもと、再び赤備え隊を率いて参戦する。
当初、直孝は先陣を任された藤堂高虎(注3)とともに、道明寺方面に向かおうとしていた。
しかし、直孝は戦場の臭いを嗅ぎ付けることには長けていたのであろう。向かう方向には戦場がないこと察知した直孝は、「このまま作戦通りに」と進言する老臣たちの意見を無視し、突如として若江方面に転進する。そこには前回の宿敵であった木村重成が待ち構えていた。
直孝軍から銃撃を開始。戦の火蓋が切って落とされた。
最初こそ互角であったが、やがて直孝軍が勢いを増し、木村軍を打ち破る。(注4)
この戦での直孝の活躍は目まぐるしい。
木村重成を討ち取った後、豊臣秀頼を追い詰め自害させる。やがて、徳川の本隊が大坂城を取り囲むと、真っ先に火矢を放ち、淀殿をも追い込んだ。
それはまさに夜叉の所業であった。
夏の陣の結果、彦根の井伊直孝は天下に名を轟かせた。
その後、井伊家は5万石が加増され、直孝も従四位下・侍従へ昇格。これを島津家の薩摩旧記では「日本一の大手柄」と賞賛している。
その後、井伊家は京都の監視と畿内への抑えとして加増が繰り返され、嘉永10年(1633年)には30万石(+城付き米5万石)に加増され大大名として揺るぎなく確立したのだった。
直孝は、3代将軍徳川家光のもとに元老(注5)の立場で迎えられ、意見があるときはいつでも拝謁できる地位となった。このため、直孝自身も江戸住まいとなり、居城の彦根にはあまり帰らなかったといわれる。
幕府での直孝に向けられた相談事は、主に軍事方面が色濃かった。
お隣の大陸で清(注6)に滅ぼされた明の遺臣らが江戸幕府に助けを求めたことがあった。
幕臣らは、これに参戦し、巷にあふれ出た浪人を戦地に送ろうと計画していたが、直孝が「豊臣家の朝鮮出兵を再現するのか」と一喝し、計画を潰したのだという。愚行だと諌めたのである。やがて、明は滅び、江戸幕府はその類災を被らずに済んだのである。
その後、直孝は4代将軍・家綱の側でもご意見番として活躍するかたわら、彦根城下の整備にも力を入れた。現在の彦根城下町の基礎が大体固まったのは直孝の頃だといわれる。
直孝にしてみれば、幼い頃に憧れた父・直政の偉業を継ぐことを本懐としておいたのだろう。
戦乱とともに生きた父・直政の背中を追い、重なるような生涯を目指した直孝。
晩年にこんな逸話を残している。
直孝は、父同様に家臣に厳しい質素倹約をさせ、自身もそれを身上とし、家臣よりも簡素な衣類で過ごしていた。やがて床に伏すようになり、医者に「不養生だから病になるのだ」と進言されると、次のように応えたという。
「その方は名医ではあるが、戦には疎い。戦場では湿った土の上でも寝るものだ。体を温めるようでは徳川の先手は務められぬよ」
万治二年(1659年)井伊家二十六代直孝、永眠。享年69歳。
遺骨は縁の深い世田谷の豪徳寺(注7)に葬られた。
この後、井伊家は譜代大名として群を抜く大老職を排出する家系の道を歩んでいく。








