列伝〜井伊家十四代〜

第8回 穏やかな肖像~井伊直澄~

嫡男でないのに家督をついだ三代目城主。
温和な人柄で穏やかに治世を行った彼もまた、数奇な星のめぐり合わせの下にいた。

彦根三代目城主は直澄という。
幼名、亀之助。先代城主・直孝の五男として生を受けた彼は、本来ならば家督を継ぐこともなく、平穏な生涯を送るはずだったのかもしれない。向き不向きという言葉が正しいかは置いておくにしても、直澄自身は城主という派手な役職をけっして望んでいたわけではなかった。
鬼よ夜叉よと呼ばれてきた直孝とは違い、17年間、終ぞ穏やかな治世を崩すことはなかったのである。

直澄について語るなら、その兄・直滋を避けることはできない。順当にいけば、この兄こそが三代目を継いでいたはずだった。

直滋は先代・直孝の長男として生まれた(注1)。早くから徳川二代将軍・秀忠、三代将軍・家光に寵愛されて育ち、江戸城下で何不自由ない暮らしをおくっていた。譜代大名筆頭にして徳川四天王の家系の嫡男であったためか、乳母日傘で可愛がられていたのだろう。それが直滋にとっての仇となった。
成長した直滋は、将軍の後ろ盾もあってか(注2)、資質がすこぶる大度であったという。良く言えば、はっきりとした物言いで一本筋の通った性格。悪く言えば、負けず嫌いで威をかざす性質である。それが、何よりも、質素倹約を厳命としていた父・直孝と反目する引き金となっていた。
直滋は、その言を持って、父すらもやり込めてしまうことがあったという。
かたや、父においても、命を守らない家臣を斬って捨てたという夜叉の直孝である。似たもの親子であるのだが、この場合それがいけなかった。
直孝が欲していたのは、自分とよく似た子ではなく、自分の言うことを聞く子であったのだ。どうも、長男のことはよく思っていなかったらしい。直滋が他から可愛がられれば可愛がられるほど、家督を譲るのを拒むようになっていった。
直滋も父の性格をよく知ってか、家督を継げないと知るや床に伏すようになった父を置いて、百済寺(注3)にさっさと遁世を決め込んでしまった。

混乱したのは彦根井伊家であった。急に跡継ぎが出家してしまったのである。井伊家譜にも「どういうわけだかはっきりしないが、出家してしまった」と記録がある。当主の直孝は病床にあり、日者(注4)のような力は弱まっている。早く次代を決めなければならない。そこでにわかに着目され、白羽の矢が立てられたのは、彦根城内の三男部屋に住まいしていた直澄であった。

直孝が没すると同時に、直澄は彦根城主を継いだ。
彼は直孝の遺訓を守ることに徹したのだという。終生、節約に努めつつ、武具を新調し、徳川幕府の危機にはいつでも出陣できるよう用意を怠らなかった。しかし、泰平の世となった時代において、それは地味な作業でしかなかったとする声も高い。

直澄はそれに不服を唱えることはなかった。むしろ、好んで地味な立場でいようとした節もある。
直孝は、本来なら五男で家督を継ぐことなどない自分にその座を譲った、大恩ある父である。直澄にはその遺志こそ全てであったのだろう。
直澄は父から「お前(直澄)の縁談の件だが、その必要はない。兄(直時)の子を養子にとりなさい」と言われたのを守り、生涯独身であったという。
父親にしてみれば、『譜代筆頭の井伊家への縁談は、きっと徳川家に迷惑が及ぶに違いない。ただでさえ、その地位をやっかむ輩が多いのに、わざわざ助長することもない』という思いがあったと思われる。直滋が将軍家光から家督を継いだら100万石に加増してやるといわれたのを聞いて激怒したというエピソードからもそれはうかがえる。井伊家に向けられた余計な非難の種は、たとえわが子の結婚といえど、払おうとしたのである。
そして直澄は、父の気持ちを十分に汲んでいた。

元来、直澄は穏やかな気質で争うよりもなだめるタイプであった。
それは幕府の中で大老職についても変わることがなかったようだ。
こんな逸話が残っている。
ある日、直澄は徳川光圀の伴として、4代将軍・家綱の茶会に参じたことがあった。将軍が直々に点てた茶を水戸のご老公様が召し上がるのを側で見るのが役目である。当然、直澄自身が一滴たりとも口にすることはない。
ここで事件が起こる。家綱は茶を点てるのに慣れていなかったのか、一人では飲みきれない量をご老公に出してしまった。今さら引っ込めるわけにもいかない。出された光圀も天下の将軍が出してくれた茶を残すわけにもいかない。場は一瞬にして不穏な空気に包まれた。
そこに進み出たのが直澄であった。
「将軍様がお点てになったお茶など勿体無くて頂戴する機会はございません。ご老公様、もしもお飲み残しであるようなら、是非拙者にも賜れないでしょうか」
光圀は胸をなでおろし、家綱も「余ればそのまま直澄へ」と言ったという。光圀が将軍の点てた茶を残すという無礼も、大量に作りすぎたという家綱の恥も、直澄の一言で回避されたのである。

穏健で機智に富んだ三代城主・直澄。
この時代、彦根藩では、全国で唯一、牛肉の味噌漬けが作られる(注5)など、文化的な発展もめまぐるしい。穏やかな治世であったからこそ、直澄がいたからこその世の中であった。
また、直澄は父・直孝の供養する石塔を多景島に建てている。いつまでもその恩を大儀に感じていたのだろう。

延宝四年(1676年)正月。江戸にて没。享年52歳であった。
彦根清凉寺蔵のその肖像画は、やはり穏やかな表情で描かれている。

(注1)慶長十六年(1612年)江戸で生まれる。幼名は直孝と同じ弁之助。後に靱負ゆきえと称した。
(注2)十七歳で従四位下、侍従に任じられている。これは異例のことで、父の直孝ですらその官位になったのは25歳のことである。寛永九年(1632年)には、江戸詰めにより彦根に帰れない直孝に代わり、将軍・家光から彦根の国政を裁決せよと命じられている。(まだ当主をついでもいないのに)
(注3)滋賀県東近江市にある天台宗の寺。山号を釈迦山と称する。金剛輪寺、西明寺とともに「湖東三山」の一つとして知られる名刹。直滋の墓所がある。
(注4)往年。昔日。
(注5)反本丸へんぽんがんという。江戸幕府は基本的に肉食を禁止していたため、滋養をつける薬として全国に出回った。これは幕末まで続き、幕府や他藩から要求が絶えなかったという。近江牛が名産となるはしりとなった。

このコーナーについて

彦根城にまつわる「列伝」へようこそ。
時代を創造してきた様々な先人たちの視座を振り返り、歴史を紐解いていきます。過去と現在をつなぐミッシング・リンクを浮き彫りにすることで、より鮮明な彦根城の姿を描くことができるようになるでしょう。
これは精緻な歴史年表ではありません。彦根城を象る物語なのです。

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