列伝〜井伊家十四代〜

第9回 中興の英主~井伊直興~

「長寿公」とも呼ばれた4代目城主。
長生きはしているのだが、けして最長寿というわけではない。
中興の英主として語り継がれるその姿がその訳を如実に物語る。

四代目となる直興が江戸で生まれたのは明暦二年(1656年)のことである。幼名・吉十郎。彼の父親は先代藩主の直澄ではない。
直澄には妾腹の子があったのだが、三代城主・直孝の遺言により生涯結婚せず、その跡は兄・直時の子である吉十郎に任せることに決められていた。
祖父・直孝の遺言により直澄の養子となっていた吉十郎は延宝四年(1676年)、直澄没に従って城主となり、名を直興と改めた。

後に「中興の英主」として語り継がれる四代目城主の治世の始まりである。

延宝八年(1680年)、将軍・家綱が亡くなり綱吉が征夷大将軍を任じられた返礼として直興は朝廷への使者を命じられ、天盃および真利の御太刀を賜るという功績を挙げる。

元禄元年(1688年)には徳川家康の霊廟である日光東照宮改修総奉行を任じられ、これも遂行している。
江戸幕府において、これまでの井伊家といえば軍事的な相談役の位置に置かれることが多かったのだが、この頃よりそこに少しばかりの変化が見られるようになる。
元来、この直興という人は大掛かりな工事を行うのに向いていたのかもしれない。後述もするが、周囲への気配りを怠らず面倒見のいい気質であったようで、工事現場の監督のような仕事は天職ですらあったのかもしれない。
直興は城主となった翌年から彦根城内に下屋敷(注1)と庭園の建造を行っている。世は元禄時代。幕府の政策に倣い全国で造園や寺院の修繕が行われたが、彦根藩でもそれを率先して行ったのだろう。
完成した庭は、山を楽しみ水を楽しむという意味を込めて「楽々園」と名づけられた。同じく、造成されたのが、唐の玄宗皇帝の離宮にちなんで名づけられた「玄宮園」である。玄宮園は近江八景を景観に取り入れられ、江戸初期の名園として今も訪れる人の目を捕らえて離さない。
また、松原港と長曽根港の改築も直興が手がけたといわれる。
このように土木事業に専心した藩主であった。

中でも最も有名なのは、やはり彦根城の北東の方角にあった大洞山の中腹に壮大な弁天堂(注2)を建立したことだろう。
元禄八年(1696年)六月、弁天堂建立に際し、領内あまねく貴賎・僧俗・老幼を問わず、全ての領民から一文ずつの奉加金を募っている。藩を挙げ、全員で建築したという結果がほしかったのだろうか。(注3)このあたり、気配りが行き届く直興の性格が表れているように思う。
日光東照宮の改修をそれ以前に終えていた直興は、その経験を惜しみなく大洞弁財天に注ぎ込んだ。(注4)東照宮とよく似た彫り物などが再現され、「彦根日光」と称される名刹として今も名を留めている。(注5)

やはり、面倒見のいい人柄においてこそ、直興という人物であったのだろう。それは個人の利益を追うものではなく、常に大局的な見地で世の中を見ることが出来たからである。直興は先々の治世にまで目を向けていた。
元禄四年(1672年)、直興は藩士に命じて各家の由緒書を提出させている。「侍中由緒書」というこの75冊は、藩士の家系履歴が後世に至って紛糾することのないようにと気が配られたものであった。

土木事業に専心し、幕府・朝廷・藩内からの信も篤かった直興であるが、しかしながら、必ずしも順風満帆な生涯であったというわけではない。
直興には33人という多くの子がいたが、ほとんどが夭折している。直興自身も病気がちで元禄十年(1678年)に大老に任じられるが、3年後に病気を理由に家督を8男の直通に譲って彦根に帰り、直治と名を改めて養生に努めた。
しかし、直通が先に逝き、次を弟の直恒に継がせたがこれも直興より先に命を落としてしまう。そのため、すでに出家し覚翁と改名していたのを捨て、直該として再び藩主に付かざるを得なくなってしまった。
7代目藩主直該は4代目直興と同一人物なのである。
幕府から再び大老職を命じられるも、跡継ぎである直惟が元服するのを待っていたかのようにすぐに隠居して彦根に帰ってしまった。そのとき再び直興と名をもどし、入道し全翁とまた改名した。

2回藩主を経験し、2回大老を勤め上げ、4回も改名した直興。
享保二年(1717年)四月、彦根にて没。享年62歳であった。
遺言により遺骸は、永源寺(東近江市永源寺高野町)に葬られた。送られた戒名は長寿院覚翁知性。そこから直興は「長寿公」とも呼ばれる。
後に直政、直孝に告ぐ名君と評価され、幕末の大老・井伊直弼がもっとも尊敬し手本にしようとした四代目直興。
「長寿公」とはその治世の穏やかな様が持続したことへのおくり名でもあるのかもしれない。

注1 槻御殿けやきごてんという
注2 大洞山の中腹にある真言宗醍醐派の寺院。正式には長寿院というが、大洞弁財天として親しまれている。彦根城の鬼門除けの寺院として建てられ、今は商売繁盛を祈願する人々で賑わっている
注3 領内から25万9526人から鳥目二七〇貫三三八文の寄進が集められた。長寿院境内内の阿弥陀堂には寄進者全ての霊位が戦国以来の近江領内の城主・館主とともに祀られている。
注4 おそらく日光東照宮改修に引き連れていた甲良大工をここでも使ったのだろう。
注5 弁天堂の意匠のほか、ここには百間橋の残木で作った1万体の大黒天像が楼門と経蔵の中に安置されている。(普段は非公開)
   また、楼門から振り返ってみる彦根城は「額縁の彦根城」と呼ばれ、景勝地としても有名。

このコーナーについて

彦根城にまつわる「列伝」へようこそ。
時代を創造してきた様々な先人たちの視座を振り返り、歴史を紐解いていきます。過去と現在をつなぐミッシング・リンクを浮き彫りにすることで、より鮮明な彦根城の姿を描くことができるようになるでしょう。
これは精緻な歴史年表ではありません。彦根城を象る物語なのです。

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